
Learning More about YOGA
ヨーガについてもっと学ぶ
教えを学ぶこと
まずは、日々しっかりをヨーガや仏教の教えを学びます。
ところで、ヨーガや仏教で定義する「善悪」は道徳的な意味で説かれているのではありません。
ここで定義されている善とは、簡単にいうと「結果的に人の心を幸福にするもの」で、悪とは「結果的に人の心を苦しめるもの」です。
つまり簡単に言うと、「怒りや批判」は、他者を傷つけ、そしてそのカルマの果報によって将来それを発した者の心を結果的に狭く、すさんだものにするので「悪業」なのです。
「慈愛」は、他者を安らがせ、そしてそれを発した者の心が広く豊かになるので、「善業」なのです。
―― このように「何が善で何が悪か」を日々学び、そのメリット・デメリット、あるいは悪しき心に対する対抗策などを、日々心に刻み付けていきます。
それはまさにお経を読むように、何度も何度も繰り返し読み込んでいくのです。
これだけでも教えの情報が心に入っていくことで心は徐々に変わっていきますが、それだけだとあまり効率的ではなく、現実的ではありません。
なぜなら、ヨーガの教えと自分の心の働きには大きなギャップがあるからです。例えば嫌いな人に馬鹿にされたとき、そこで怒ることなく慈愛を発しなさいと言われても、急にそれを行なうことは相当難しいでしょう。

奉仕と献身
奉仕や献身は、さまざまな項目があります。
・祭壇にお香や花などの供物を捧げる。
・聖典の教え通りに生きる。
・すべての人々に神を見て、奉仕する。
祭壇への奉仕
これは分かりやすいですね。
ところで皆さん、もし可能ならば、自分の部屋に祭壇を作り、そこを神との交流の場にするといいと思います。
少なくとも、その部屋の中でだけは、世俗的なことは一切しないようにします。
そうすると、人はその部屋の中に入るだけで気が上がり、心が神聖な気持ちになるでしょう。
そして、その祭壇に日々、水やお香や果物やお花などの供物を捧げたり、祈りを捧げたりするといいと思います。
それが祭壇への奉仕ですね。
聖典の教え通りに生きる
聖典の教え通りに生きてみてください。
100%それをやろうとしたら、非常に難しいはずです。
それをするには、エゴを放棄しなければなりません。
聖典に書かれていることは、すべてエゴの働きに反することですから。
ですので、これは言ってみれば、「エゴ」という供物を神に捧げることになるわけです。
すべての人々に神を見て、奉仕する
近代の大聖者ヴィヴェーカーナンダは、バクティヨーガには「ガウニ・バクティ」と「パラー・バクティ」の二段階があるとおっしゃっています。
最初のガウニの段階では、人は自分の神だけを愛し、そこに心を集中しますが、それがパラーの段階に来ると、「神はすべてに遍在していた」と悟るのです。
神はすべてに遍在しています。
ゆえに、すべての人々に奉仕することは、神に奉仕するということなのです。